爪が折れた。

綺麗に伸ばしてたのに。哀しくなった。折れて私の身体から離れた爪を手のひらで転がす。握ったら刺さって手から血が出るかな、思いながらも握ったら、爪は手の中で情けなく曲がった。柔らかい。

まだ私の指に残っている爪は、先がえぐられたみたいになくなっていた。


不意にチャイムが鳴る。
ドア・アイを覗き込むとそこには、知らない男が立っていた。


「宅配便でーす」

確かに、見覚えのある制服と、帽子だ。
でも、誰からだろう。何か送ってきてくれる人がいるかな。私なんかに。
ドアを開けると同時に、靴箱の上においてあった印鑑に目をやる。伸ばした右手は、中指の爪だけがいびつでとがっていた。

印鑑に指が触れた瞬間、男に突き飛ばされた。何だろうと思う。あぁ、このまま倒れたら痛そうだな、とも思う。でも、一度崩れたバランスは、元に戻らない。そのままガラガラと積み木が崩れるように倒れるしかない。重力に逆らえないのは知っている。

「ごめんねお姉さん。」

男はドアを閉めて、ついでに鍵も閉めた。私の横を通って部屋の中へ入っていく。あまり大きくはない包みを持ったまま。あれは私へ送られてきたものではなさそうだ。倒れた拍子に頭をぶつけたりはしなかったものの、強く床に打ち付けてしまった右腕の肘と腰が痛い。でもなんとなく起き上がって男に近づこうと思った。

「ねぇ、何しに来たの?」

案外私の声は落ち着いていたかもしれない。

「うん?そうだなぁ。何だろう。逃げてきたんだ。」

男はあいまいに答えた。

「何から?」
「…いろんなもん。ねぇ。ここに住んでもいいでしょ?」

突拍子もないことを言う。新手のストーカーか。いや、そんな大胆なストーカーがいるはずない。

「いいけど。」

言ってから、あれ。と思った。別に許可するつもりなんてなかったのに。
でも言ってしまったら、いいか、という気になった。私はなんて単純なんだろう。

「ありがと。俺のことはミケって呼んでくれればいいや。」
「何それ。猫みたい。」
「猫だし。」
「ますます意味わかんないよ。」

笑いあった。おかしかった。この状況と、それからミケという名前が。名前なのかただの呼び名なのかは分からないが。猫に見えてくるから不思議だ。

それから、なぜか普通に二人暮らしが始まった。私の家からはつい最近男が一人いなくなったばっかりで、男物の洋服も、二人分の食器類も、そろっていた。


 ミケは、本当に猫みたいなやつだった。宅配便のお兄さんだったくせに、あれから一週間もたっていない今、もう私の膝の上で眠っている。猫にそうするように首を触ってやると、猫みたいな声をだした。眠っていてもそうだった。今も、そう。そうやって、首を触っていたら、急に飛び起きて私に抱きつく。

「おはよ。」

そしてキスをする。おかしい。

「ねぇ、彼氏がいたんでしょ?」

首を傾けて聞かれた。うなずくと、またキスをされる。

「何で今はいないの。」

何だこいつは。
ふと目を見ると…子供のようだった…なんてことはなくて、猫みたいで何を考えているのかわからない。

「別れたから。」
「何で別れたの?」

楽しんでいるようにも見える。ただ聞きたいだけのようにも思える。私が泣くところを見たいのかもしれないし、慰めてみたいのかもしれない。でも、そのどれもがしっくりこない質問の仕方だ。

「さぁ。捨てられたの。一方的に。」
「酷いね。」

ちっともそう思っていない。

「えぇ。酷い。酷すぎるわ。」

私はすこし、感傷的に言った。本当はそんなに酷いと思っているわけじゃなかった。ミケが来る前は、それこそ彼の酷さにもう恋なんか絶対にしない、するくらいなら死んでやると決めていたのに、そんな決心はすぐにゆらぐものだ。例えば、こういうわけのわからない存在なんかで。

「でも哀しそうじゃないね。」
「ミケがいるから。」

心底嬉しそうだった。なんというか、男と同棲している感じがしなかった。男と女が一つ屋根の下なのだから、夜はそういう行為に及んでいた。初めてミケがきた日から。私はそういう女で、ミケはそういう男だからだ。でも、何か今までとは違うと思った。ミケに、恋をしているのかもしれない。それはそれで楽しそうだ。

「俺が好き?」
「そうね。」
「ふーん。」

それなりに広いマンションなのに、ミケは私から離れない。ずっと。寝るときも。さすがにトイレまではついてこないけど。風呂は一緒に入ってた。


そうして、数週間が過ぎたと思う。だって、もう時間なんて私たちにはなかったから、よくはわからないけれど。

「ミケは何でうちに逃げてきたの。」
「ん。哀しそうだったから。」
「私が?」
「他に誰がいるの」

ミケは笑った。それはベッドの上で、私もミケも服を着ていなかった。ミケは後ろから私を抱いて、二人は一枚の毛布をかぶっていた。暖かい日だった。ミケの体温が、直接私の体温になる。

「じゃぁ、私が悲しそうじゃなくなったら、いなくなるの?」

哀しそうだ、なんて、何でわかったのだろうとか、そういう疑問はすでにもたないくらいにミケが変なやつだってことは知っていた。

「今すでに哀しそうじゃないくせに何言ってるのさ」

私はほっとする。ミケは私の長い髪の毛をなでたり指に絡めたりして遊んでいた。

「俺には帰る場所、ないから。ここ以外に居場所もないし、ここを出る気もない。たとえ出てけって言われたって出て行かないつもり。」
「それは困るかも」

苦笑した。嬉しい。

「亜紀は俺の大事な亜紀だもん。」


唐突に始まったのろけ話みたいな御伽噺は、終わりを知らない。折れた爪は、もうどこかへ行ってしまったけれど、残った爪のいびつな形は治らない。別に、いびつなままでもいい。でも、何かで治せるなら治したいじゃない。結果、どんな形になっちゃったとしても。

例えば、ある日、壁に爪を研いだ跡があったとしても。










2005/12/07