虹あるいはビブラート
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ベランダには朝日が差し込んでいて、窓際のいすに座った私はくらくらしてしまう。本を読もうと思ったのに、窓の外をぼぉっと眺めているだけで本を開かないまま時間がすぎていった。夜通し降っていた雨のせいで、空気が朝日にきらきら光っている。そう遠くないところに、虹も見える。触れたら、この空気は水のようにさらさら指の間をすり抜けていくんじゃないか、と思った。 あなたは私の見えるところに寝ている。夢を見ている。私の見える範囲にあなたがいるという安心感と、ここが自分の家ではないという不安要素がうまくバランスを保って、ここにあるのは平穏と静けさ。 時計が一秒刻む間に、光は波となってあるいは粒のように、空気中の水にぶつかりながら、散乱し、屈折し、またぶつかり、吸収され、もしくは反射して・・・そういう行程を何度も繰り返す。私のところに届く頃には、水に流されて角のとれたガラスのように柔らかになっているから、雨上がりの日差しは痛くないのかな、と思ったりする。 ちら、とあなたを見ると、あなたは目を覚ましていて、まぶしそうにこちらを見ていた。 「何してるの?」 眠そうな声が私の耳に届く。あなたの声は、たいした距離を旅した訳でもないのに、私の耳に届く時すでにとても柔らかい。 「何も。本を読もうと思ったんだけど。」 結局1ページも読んでないの。 「CDもかけないで珍しいね。」 そういう風に気がついてくれるのは、なんでかしら。自分でも気づいていなかったのに。 「何が聴きたい?」 あなたは少し考える。考えている間に寝そうだな、と思った。でも意外とすぐにリクエストがきて、そこでやっと私は窓際のいすから立ち上がる。 床は固い。裸足の足の裏に、冷たいフローリング。CDをセットしてプレイボタンを押すころには、思わず手でさすってしまうほど冷えてしまう。 「足だけ入れさせて。」 心地よいアウフタクトを聴きながら、あなたの体温で暖かいベッドの中に足を突っ込む。 「足だけなの?」 少し不自然な体勢になってしまったので、あなたのとなりに私も寝ることにする。自然に身体のいろんなところが触れあって、私はなんだか泣きそうになった。さっききらきら光っていた空気が冷たいのにあったかく見えたのと反対に、あったかいあなたが実は冷たいんじゃないかと思って。うまくバランスを保っていたのに、どうして?つやっぽいビブラートの音がする。 どうして泣いているの、と聞かれたら答えられないな、というだけの理由で泣くのを我慢する。でもそんなのすぐにばれてしまう。 「どうしたの。」 あなたはそういいながら、『どうした』のか答えを聞く気はあまりないようで、私をそっと抱きしめてくれた。 私はまだ信じられない。あなたのことも、この世界のことも、まだ信じられない。私が信じて疑わなかったものは、音楽以外、みんなどんどん私を裏切った。どこまでが夢でどこからが本当なのかも知らないくせに、あなたのことを信じるなんてできるわけがない。でも、無意識に信じている時が、ある。頼り切っている時が。困るのは、そういうとき、私が幸せだという事実。 信じている、と気づいてしまったら、だめになってしまう。裏切られることが頭をよぎって、信じてはいけないのに、という想いが襲ってくる。 あなたはいつも、信じなくていいよ、と言ってくれるから、私はあなたをもしかしたら傷つけているかもしれないことも、見ないようにする。この人も、いつか自分から離れていってしまう、と、いつも頭の中で思っている。そう思っている時の方が、幸せではないけれど楽だから。 虹が消えてしまった。でもまだ空気は光っている。さっき読まなかった本を、泣き止んだら読もうかな、と思う。あなたはまた寝てしまった。私はスピーカから聞こえる音符を追いながら、窓の外を見ている。 |